はじめに

朝、目が覚めて、布団の中で「また今日が始まる」と思う瞬間があるだろうか。胸のあたりが重い。昨日の夜に消えたはずの不安が、朝と一緒に戻ってくる。

その感覚に名前をつけてみてほしい。それは怠けではない。弱さでもない。感受性によるものか。いや、それは「商品」だ。

あなたが今、あなた自身を責めているその不安は、誰かの手で設計され、そして、安心という名の不安に加工され、値段をつけられて、あなたの目の前に陳列されているかもしれない。あなたはそれを、自分の内側にしまい込んできただけなのだ。

この記事は、その構造をていねいにほどいていく。まずはひとつだけ、断言させてほしい。

あなたが苦しいのは、それがお金になるから。

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不安は、いちばん売れる商品である

おそらくあなたは、一日に何百回も「不安」という商品を買わされている。

ニュースは、恐怖を流せば流すほど視聴率が上がる。テロップには「深刻」「危機」「急増」の文字が並ぶ。「知っておくべき」と題して流される情報の大半は、常識とされるものを刷り込み、誰かを不安にさせるために編集されている。

SNSは、怒りと不安で最もエンゲージメントが発生することを熟知している。あなたが少し傷つく投稿に、あなたの時間と感情が吸い取られる。それは個人の悪意のせいではなく、プラットフォームの設計なのだ。感情を費やさせると言うビジネスモデル。

自己啓発の棚には、不安を煽ってから救済を売る本が並ぶ。「このままではやばい」「まずここを変えろ」。あなたの「まだ足りない感覚」を育てることで商売が成立している。

健康・老後・教育・婚活。 あらゆる分野に同じ構造がある。まず恐怖を広げ、次に「あなただけが特別な解決策を買える」と囁く。

まずは、自分は大丈夫かという不安が生まれる。不安をビジネスにして、安心を売り物にして利益を得る仕組み。それが、不安ビジネスとは、意図的に不安を煽り、解決策として商品やサービスを購入させるビジネス手法である。

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マスコミ等のメディアは経営のために収入が必要だ。人間は心理学的に、ネガティブな情報や危険・不確実性に強く反応する性質を持っている。人々の注意を集めるために、「〇歳までに〜しておかないと危険」「〇〇な状態は異常」といった基準や「こうあるべき」という規範(理想像)を繰り返し報道・提示を行う。また、CM等による広告収入を企業から得ている。CMは企業のイメージアップや消費者の商品・サービスへの購買意欲を刺激している。繰り返し見せられる広告に、不安になった人は企業が提供する商品やサービスを購入する。広告収入を得るために、メディアは稀な事象や局所的なリスクを連日報じることで、「自分も危険に晒されている」という認識を視聴者に植え付ける。人々に不安が感染し、高まると国は広告を規制する法律を制定し、ルールを強化する。新しい規制や制度を運用するため、関係省庁の予算が増額され、専門の監視機関や許認可権限が生み出され、権力の拡大として使用される場合があります。また、「安全」や「保護」を名目とすることで、個人の自由や私的領域への介入・管理等の統制が社会的に受容されやすくなり、また、違った不安が生まれる。ある意味、安心から生まれる不安。不安の連鎖とも言えるだろう。

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あなたの不安は、あなたの内部で自然発生しているものではない。外部から刷り込まれている。 この認識を持つことが、出口への最初の一歩になる。

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自己責任という名の「責任の転嫁」

では、なぜ私たちは不安を「自分の心の問題」だと思い込むのか。

ここに、もっと深い構造がある。格差の固定化だ。

社会の資源が上に偏っていくとき、下の人間がそれをそのまま直視すれば、社会の仕組みそのものが問われることになる。だから、不安を抱える側に「あなたの努力が足りない」と言い続けることが必要になるのだ。自己責任論は、構造の問題を個人の責任にすり替える、精緻な装置である。

貧困は、個人の選択の結果よりもはるかに多く、出生、環境、不況、制度のせいで配分される。差別は、個人の能力ではどうにもできない場所で再生産される。それなのに、私たちは自分に、他者に「頑張らなかったからだ」と判決を下してしまう。

監視社会は、その判決をじわじわと内面化させる。評価されること、監視されていることを内面化してしまい、いつしか誰も見ていない場所でも「ちゃんとしなきゃ」と自らを罰するようになる。自分を監視する社会の目が、自分の内部に住みついてしまうのだ。

政治も経済もマスコミも、その「自分を責める装置」を動かし続ける周辺機器にすぎない。あなたはシステムの故障を、自分の心の故障として引き受けてきた。

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心理学が教えてくれる事実

ここで、少しだけ冷静な話をしよう。

心理学には「学習性無力感」という概念がある。逃げ出せない状況に長く置かれた生き物は、やがて逃げ道が開かれても、行動を起こさなくなってしまう。この研究は人間でも繰り返し再現されている。

つまり、あなたの「やる気が出ない」は、あなたの性格ではなく、環境への正当な反応であることも多い。報われない環境で「やる気を出し続ける」ことは当たり前か。搾り取られる姿が目に浮かばないか?

もうひとつ。「自己肯定感が低い人」と言われるとき、たいていの説明は個人の心に注目する。だが、安心して失敗できる場所、配慮してくれる人間関係、明日の生活の保障――そうした基盤を欠いた環境では、自己肯定感は当然のように低下する。

心の問題だと思われているものの多くは、環境の症状なのだ。

だからこそ、ある結論が浮かび上がる。あなたがまず回復させなければならないのは、「もっと頑張る自分」ではない。不安を注入される回路から、自分を切断することだ。

具体的には、こういうことから始められる。

  • 通知を切る。SNSの表示時間を制限する。
  • 「知っておくべき」と煽る情報より、「今この瞬間」を感じる時間を優先する。
  • 自分のせいにしたくなる思考が出たら、「この考えは私のものか?」と一度問い直してみる。

不安の構造から抜け出すには、「不安をゼロにする」ことではなく、不安を感じている事を認め、不安が生まれるたびに消化する。

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データなどの事実と発信者の意見を分け、根拠を自分で確認する。 「深刻な危機」「驚きの結果」などの発言者の所感ではなく、「数値」「数値の変化」「事実として何が起きたか」を調べ、その情報を発信することで「誰が得をするのか(お金、権力、アクセス数)」を常に意識します。CM収入で成り立つメディア、国の予算を増やしたい行政、商品を売りたい企業、アクセスを集めたいSNSインフルエンサーなど、それぞれの「立場」を差し引いて情報を評価しする。賛成の意見だけでなく、反対意見にも目を通す。海外メディアがどう報じているかを確認し、国内の空気感から外れた視点を得やすくする。数年〜数十年単位の長期的な視点や過去の事例を調べることで、類似性の有無を確認する事が出来る。

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「なぜこの問題が今、この角度で報じられているのか」「誰の利益に結びついているか」という、発言の意図を探る。

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複数の情報源からの、事実やデータを元に、自分で考えることが、不安ビジネスや情報操作から身を守る方法に繋がると考える。

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現在、基準が外部に作られ、それに当てはまっていないと、社会には認められない状況だ。そのために、無理に自分を合わせようとすることもあるかもしれない。ただ、必ずしも自分自身の心に沿うことばかりではないだろう。基準から外れた人への制裁はマスコミ等によって刷り込まれている。その事への恐怖から不安がわき起こり、不安が生まれる。そして、他者からの承認されるような言動を取るようになる。他者に制裁を与える立場になることで、あちら側ではないという線引きをし、安心を得ようとしているのです。しかし、それは基準から外れると制裁を受けるという不安と隣り合わせの安心だ。

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制裁への対策としては、「叩くための材料」を外部に提供しないことだ。議論を呼ぶ意見や本音を出す場と、実社会でのアイデンティティを完全に切り離す。

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報道やSNSで誰かが叩かれている時、それは「世の中の100%が怒っている」のではなく、「怒りの感情が拡散されやすいだけ」と認識します。

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一箇所(家庭、学校、職場、地域、特定のSNSコミュニティ等)に身を置いていると、そこで制裁を受けた際に人生の全てが脅かされるように感じるかもしれません。価値観を共有できる少数の人との外部に見られない場(信頼できる友人、少人数コミュニティなど)を確保する。「ここでの評価が全てではない」と思える別の居場所を複数持つことで、同調圧力に対する心理的避難先を用意する。

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これは現実逃避ではない。自分に戻るための、はっきりとした鎖国だ。日本は昔他国との交流を制限した。そして、平安時代、国風文化が生まれた。仮名文字の発達、和歌、物語、日記文学が生まれた。自分の国風文化を養う時間だ。

一気に「社会の仕組み全体」や「自分の不安」と戦おうとする必要はない。今の「自分にできる小さな1歩」が重要だ。

自分で判断し行動し責任を取る、という積み重ねが、自分自身を取り戻し、自分で対処出来るという、自分は「大丈夫」という状態につながると考えています。

不安を買う・買わないという小さな一歩を、「誰かが買っているから」ではなく、自分自身がどう考えるのかで選んでみて下さい。

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人間は自然であり、自然は神である

さて、ここからが本題だ。この記事で一番伝えたいこと。

あなたはきっと、誰かに「地球は美しい」と言われても、ピンと来ないかもしれない。忙しさと不安の霧の中では、空も風景もただの背景だ。だが、考えてみてほしい。

山は、あなたが今日「何かを達成したかどうか」で、登る価値を変えたりしない。海は、あなたのフォロワー数を知らない。鳥は、あなたの自己肯定感が高いか低いかを聞いてきたりしない。自然は、あなたをまったく評価しない。 それでいて、自然は、ここにいるだけでいい、と無言で許している。

なぜ自然が神なのか。自然はあなたにときに恵みを、ときに畏怖を与える。自然を敬い、そして畏れる。信仰の源だ。人間は自然そのものである。

そして、あなたはその自然の一部だ。細胞のひとつひとつは、海から生まれた水で満たされ、太陽のエネルギーを間接的にかりて動いている。あなたは自然そのものの現れであり、つまり、神性を内包している。

人間をバラバラにしようとしているもの――自然と人間を区別する構造――はすべて、あなたからこの真実を遠ざけるために働いている。あなたを「できる・できない」で評価し、「勝ち・負け」に分解し、あなたという宇宙を一人の労働力に縮めようとしている。

だが、あなたは労働力ではない。「使えない」?誰も誰かの道具ではない。外科医は臓器を「パーツ」と呼ぶ。人体は部品だろうか。

あなたは自然だ。地球に負荷をかけることは、自分に負荷をかけることだ。オーバーワークが、人体にどの様な影響を与えるのか、報道等によりご承知のことだろう。地球の環境を人体に例えることがあるように、ひとつのことが他に影響を与え、全ての影響は地球全体につながっていく。

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おわりに

これからここでは、社会の構造をていねいに分析し(それは怒りを感じないためではなく、怒りの変化を感じるために)、心のしくみを解きほぐし(それはあなたを責めるためではなく、あなたを分かるために)、そして、生きやすい環境のために書いていく。ただ、集団としてひとくくりに表現している部分があるが、その団体に所属するすべての人が、同様であるとは考えていない。個人攻撃をするつもりはない。構造を説明するために、組織や団体としての一面を取り上げている。その組織のすべてと受け取らないで頂きたい。

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まずは今日、一度でいい。窓の外の景色を、十秒だけ見てほしい。一秒でもいいだろう。それはあなたへの評価のない、ただ純粋な存在からの挨拶だ。

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あなたは、もう十分に、あなただ。 あなたがあなたを認めにくい社会の構造の中にいることを理解して頂きたい。

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(注:この記事は個人の考察であり、医療的助言ではありません。つらい気持ちが続くときは、医療や相談機関の力を借りてください。)