第一章 「学校」という名の閉鎖空間

学校は特殊な空間だ。「クラス」に分けられた同じメンバー、同年代だけの狭い世界。部活動などあれば、少し変化があるかもしれないが、学年という上下関係が生まれる。そして、成績などで比較され、評価され続ける空間でもある。

10代はアイデンティティを確立していく年代だ。そして、「社会性」を求められてくる年代でもある。「自分は誰なのか」、「どこに所属できるのか」、「嫌われたくない」、「孤立しなくない」という「不安」を抱え、無意識に「順位」や「空気」を作る。 この環境の中で、学生たちは安心するために「誰が強いか」「誰といれば安全か」「どの立ち位置なら傷つかないか」を敏感に探し始める。自然に「役割」が決められていく。「話題の中心にいる人」、「空気をつくる人」、「逆らえない人」、「目立たない人」。そして、役割は固定化されていく。クラス、学年、学校という小さな社会で自然と起きる「生存戦略」。

スクールカーストで上位に見える人は「人気者」ではない。例えば、笑いを取れる、誰を仲間に入れるか決められる、流行を決められる、無視の対象を決められる、「普通」を決めらる、「空気」を読み、「支配」ができる人。集団の「不安」をコントロールすることができる人だ。

下位になりやすい人は「空気を読まない」、「集団」よりも「自分」を大事にする、感受性が強い、一人でも平気、独自の世界観を持っていることが多い。しかし、これらの特徴は「集団」に染まらない「個」を成熟させているということでもある。学校という閉鎖空間では不利でも、開けた多様な人間が集まる場では、また違う立ち位置に変わる可能性がある。

しかし、現在ではSNSが発達している。以前は、学校を出れば終わりのあったことが、帰宅してもその関係性が続く。常に「学校と繋がっている」、誰かに見られている状況が24時間続く。その結果、「学校の空気」の支配力が強まり、「嫌われないこと」、「浮かないこと」、排斥されないことが優先となっている。

しかし、カーストの上位にいる子どもも「安心」している訳ではない。「落ちる」とどうなるかという「不安」を抱えている。「落ちたくない」、「外されたくない」、「変だと思われたくない」、「キャラクターを維持しなければ」という観念を抱えている。

カーストの上も下も「役割」に縛られている。「集団の不安」に晒されている。目立つ子は落ちたく無い、目立ちたくない子もいるだろう。空気を合わせて嫌われたく無い、傷つきたくない、波風を立てたくない、それぞれ不安を抱えている。

そして、その不安を隠すために「キャラ」という仮面を被る。明るい、面白い、冷たい、優等生、無関心、「そのままでは受け入れられないかもしれない」という不安を抱えているためだ。

「不安の連鎖」が続いている。

第二章 なぜSNSは苦しいのか

今のスクールカーストはSNSによって増幅されている。様々なSNSが発達したことによって、「常に見られている緊張感」に晒されているのだ。さらに、SNSの拡大に伴い、世界各地の投稿が寄せられている。かつての比較の規模と比べ、全国、さらには世界全体へと大きく広がっている。一見、今の10代は外見的には非常に洗練されて見える。写真の撮り方、話し方、メイク、編集、流行、空気感、自己プロデュース、「見せ方」の上手さが求められている。SNSでは、楽しそうな瞬間、可愛い瞬間、成功した瞬間、愛されている瞬間、「表に現してよい」という他人の「ハイライト」だけが写し出される。すると無意識に他人の「ハイライト」と自分の「日常」を比較してしまう。そのため、「みんな輝いて見えるのに、自分だけ苦しい」という感覚に陥りやすくなる。

「大人」が撮影した「子ども」の写真をSNSに投稿する。幼い頃から「どう見られるか」を意識せざるをえない環境で育っているのだ。SNSの投稿に対して、各種の反応がある。既読、いいね、フォロワー、コメント、などの本人への反応や、スクリーンショット、リポストなどの拡散性。そして数値化。このことにより、「他者の視線に常に晒されている」、常に「点数」を「評価」する「観客席」が頭の中に入り込みやすい状態だ。今の10代のSNSの発信は「自己表現」をしているというよりも、「自己演出」の早熟化が起きていると言えるだろう。しかし、演出を続けるほど、「本当の自分が分からない」という感覚が強くなりやすくなり、「常に他者の視線の中で存在している」という緊張感による「疲労」が起きている。この「疲労」の蓄積によりSNSが苦しくなるという現象が起きていると考えられる。

第三章 「キャラ」を演じると何が起きるか

前提として、「キャラ」は悪いものではないと考えている。カール・ユングが提唱した「ペルソナ」という言葉にあるように、社会に適応するために使い分ける「仮面」を人間は皆ある程度持っていると考える。親の前の自分、友達といるときの自分、先生といるときの自分、アルバイト先の自分、SNS上の自分、ひとりでいるときの自分、これらが少しずつ違うのは自然なことだ。問題はその「キャラ」をやめた時にどうなるのか、居場所はあるのかという「不安」だ。「キャラ」とは自分の居場所を守るための「防衛反応」だ。「キャラ」の後ろには、嫌われるのが怖い、沈黙が不安、注目されないと不安、傷つきたくない、などの思いが隠されている。すなわち、「キャラ」とは、「本当の自分を守るための鎧」である。

そして、現代ではSNSがある。「ペルソナ」の保存、「キャラ」の固定化への圧力が高まっている。一度こういう「キャラ」と思われると、そこから抜け出すことが難しくなっている。固定化され強くなった「キャラ」は「キャラ」ではなく、「本当の自分」だと思い込ませてしまう。 まず、強くなった「キャラ」を維持するために「疲れ」が出る。「観客席」の「期待」を裏切らないように、「維持」出来るように、「空気」を壊さないように、神経を尖らせ、緊張感を維持している。 次に、何か「本音」か分かりにくくなる。「疲れた」、「悲しかった」、「嫌だった」、よりも「どう振る舞うべきか」を優先し、自分の感情が見えなくなってくるのです。 そして、ひとりになったとき、「キャラ」がなくなると自分が誰か分からなくなってくる。 常に「キャラ」を求められる今、当人が「演じている」ということを自覚しにくく、そのために「自分の本音」が分かりにくくなっているの。

第四章 「自分が無い」は悪いことじゃない

10代の子がよく感じる不安に「自分が無い」、「何が好きか分からない」、「周りに流されてしまう」、「本当の自分が分からない」などがあると聞く。ある種当然の不安だと思います。思春期とは、これから自分を「認識」していく時期だからだ。

子どもの頃は、家族や学校、周囲から与えられた価値観の中で「当たり前」として、生きている。しかし、思春期を迎え少しずつ疑問を感じ始める年代だ。親や先生の考え、友達の空気、SNSなど「世間の普通」に違和感を感じ始める年代だと考える。「本当にそうなのか」という疑問は、自分の内側に判断軸が生まれ始めているサインである。

疑問を持ち、「分からない」という感覚を持つことは成長の途中にあるということなのだ。しかし、それは「自分が無い」ということではなく、色々な自分を感じているからだ。みんなに合わせたい、けれど一人でいたい。認められたいけれど目立ちたくない、本音を隠したい、けれど分かって欲しい、様々な思いがあるから、「分からない」という状況にあるのだと思う。しかし、どの思いも悪いものではない。やってみる、感じる、それが違和感なのか、心地よさなのか、色々な経験を繰り返し、感情を味わうことで、合う、合わないなどの感覚を確かめながら、「自分」というものを探っているのだ。

「好き」「嫌い」「苦しい」、様々な感情を感じ、急に変わったりするかもしれない。この変化こそが、内面が成長しているということなのだ。

「自分が無い」のではなく、「まだ」自分を認識していないだけだ。「世間の常識」や「キャラ」の後ろにある自分を見つけている途中にいるだけなのだ。

第五章 安心して「自分に戻る」とは

これまでの日記は、誰にも見せない前提で、まとまっていなくていい、綺麗じゃなくていい、正しくなくていい、共感を得なくていい、評価されない安全な場所だった。「感情」を「言葉」にし、紙に書くことで、自分を客観視することが出来た。

かつての「誰にも見せない評価されない言葉」であった日記は、今ではSNSに投稿されている。

そして、一口にSNSと言っても、種類ごとに求められる役割が異なる。匿名性が高いSNSは、「役割から外れ弱みを出せる」場としての側面がある。「ハイライト」を彩るSNSでは「見せることの出来なかった」感情を出すことの出来る一種の「避難所」のようなものかもしれない。

これまでの日記のような自分を客観視する時間と場が必要だと感じている。見せない、評価されない、演じなくていい、安全であるという感覚から安心感は生まれる。そして、安心している状態でやっと自然な姿、「自分」を表現出来る様になるのだと思う。

ひとりの時間を持つということは、孤独を感じるというわけではない。安らぎの場にもなるのである。

社会の価値基準でなく、自分がどう感じ何を望んでいるか感覚を探り、様々な面があることに気付き、どの面も「自分の一部」として認めて受け入れていくことが、「自分に戻る」ことにつながると感じている。

「観客席」の前にいるということは、「舞台」に上がっているということだ。緊張感もあるだろう。演技を終えて「舞台」から降り、「観客席」に「見られない」「見せない」、「舞台裏」や「楽屋」で休む時間があってもいいと思う。

仮に、SNSに投稿した日記が「清書」だとすれば、「下書き」の方がこれまでの日記に近いのかもしれない。

​

▲無人の舞台

出典を付ける形式を取る以前に作成した文章のため、記事内の公開記事の出典はない。しかし、関連記事がその役割を補うと考える。

AIとの対話による内省が行われる事があると聞く。AIとの対話を試みた記録があるので、関連記事に加える。AIとの対話による内省を推奨も否定もしない。かみぺーぱー個人がAIとの対話を試みた一例として、明らかにしたものである。

関連記事

▼不安について

​https://bibouroku-migaku.jp/2026/09/28/huanbusiness/​

▼ジェンダーについて

​https://bibouroku-migaku.jp/2026/09/28/gender/​

▼ルッキズムについて

​https://bibouroku-migaku.jp/2026/09/28/lookism20260911/​

▼SNSの怒りのアルゴリズムについて

​https://bibouroku-migaku.jp/2026/09/28/ikari/​

▼AIとの対話記録

​https://bibouroku-migaku.jp/2026/10/03/aitaiwa/​